第一章 眼に映ずる世相 / 七 仕事着の捜索

七 仕事着の捜索

 ヨウフクといふ語が既に国語であると同じく、所謂洋服も亦とくに日本化して居るのである。なまじひに其文字の成立ちを知り、此著物の伝来をつまびらかにした者が多い結果、いつ迄も我々は之を借物だと思ふ癖を去ることが出来ない。始めて朝廷が礼服の制を改定せられた際には、或は寸分も違はず何れかの一国の風を移すこと、たとへば大和の都で唐式を採択せられた如くであつたかも知れぬが、尚本元の正しい著方までを学び取ることは容易で無かつた。下に鼓動する心臓の問題は別にして、単に外形の上から言つても、やりや弓術で作り上げられた骨格が之を引掛けたのだから、同じ形とは見えなかつた。所謂鰐足わにあしが非常に気になつたさうである。或は牧師のやうにいつもフロツクコートを著て居る人がある。朝から燕尾服えんびふくを著てあるく礼儀もあつた。既に其頃よりして一種洋服に近い衣物きものと、謂ふ方が当つて居たのである。それでも晴の衣裳は初から窮屈なものときまつて居たから、絶えず手本に照らして訂正することもあつたらうが、是が常着であつては借物で通せる道理が無い。追々に自己流を発揮して行く方が当り前である。我々は寧ろ今日の程度にまで進んで身をめて新服に調和させようとした、無邪気さに歎服してもよいと思つて居る。

 或は人によつては稍進み過ぎた決断のやうに、感じて居た者もあるか知らぬが、所謂洋服の採用を促したものは、時運であり又生活の要求であつた。兵士が顕著なる一つの例であるが、つまり明治四年に於て既に新たなる仕事着をさがして居たのである。兵士の仕事着はもう古いものが用ゐられなくなつて居た。ちやうど近頃の勤労者も同じやうに、仮に独立して工夫をして見たとしても、やはり上下二つになる衣袴いこを考へ出すの他は無いのであつた。是には勿論洋の字の附くものを、新らしいと喜ぶ心持が手伝つて居る。或は晴着に洋服を用ゐんとした人々の、感化といふことも考へられぬことは無い。併し単なる模倣で無い証拠には、最初から必要なる変更を加へて居たのである。例へば学生が制服に足駄をはき、ズボンに帯を巻いて手拭を挟んだりすることは、三四十年前から今も続いて居る。地方の郵便集配人には、足だけは和服のものが初から普通であつた。兵士でも警察官でも、最も真剣な働きの際には、屢々是に近い改良が必要と認められて居た。夏の旅人には時々はへそから下だけの洋服を著て行くものがあり、俄雨にはかあめのぬかるみの中では、靴を下げて素足で通る人さへあつた。実際日本の気候風土、殊に水田の作業を主とする村々に於ては、晴着以外の目的に寒い大陸の国の服装を学ぶことは、何よりも先づ足が承知をしなかつたのである。即ち生活の必要が之を日本化させたといふよりも、単に落想を外国人から得た新たなる仕事着と、言つた方が寧ろ当つて居るのである。

 婦人洋服の最近の普及と共に、此推定は一段と明白なものになつた。敢て事々しく動作を敏活にする為などゝいふ説明を添へずとも、親しく現在の実景を見た程の人ならば、是が小児服同様にたゞ愛らしくする目的に出でたものと、考へる者などは恐らくはあるまい。働かうといふ女たちに働くべき著物も与へず、今まで棄てゝ置いたのが済まなかつたと言つてもよいのである。勿論女の仕事着も元は確にあつた。日本はなか/\女のよく働かされた国で、それが不要なほど悠長な暮らしは少なかつたのである。ところが理由あつて中央の平坦部へいたんぶなどには、その仕事着が早く廃れてしまつた。西洋の田舎でも、女がよい服よい靴の古びて仕方の無いものを、畠で着て居るのをよく見かけるが、殊に日本には女に余分の晴着が多く、その中の一等悪いのが、下して間に合せに用ゐられたのである。是には団体の作業が少なくなつて、めい/\の出立ちを八かましく言はぬやうになつたことも、原因の一つに算へられるが、それよりも大きな理由は衣服が得やすく且つどし/\と古くなることであつた。今日の女の常着は以前の晴着であつた。即ち、上﨟のよそ行きの衣の型であつた。しかも之を裾引すそひいて居られる女性は、実際は町にも少なかつたので、乃ちたすきを応用して長いそでをまくり上げ、つまを折りかへして重くるしい帯をうたのみならず、更に色々の見にくい身のこなしを忍んでまでも、此なりで尚働かうとしたのは殊勝であつたが、今から考へると無理な苦労であつた。ヨウフクの発見は至つて自然である。保守派の長老たちの人望を獲難いのは、この突飛なる躍進を賛成せぬばかりか強ひて此事情を述べようとすると、然らば今一度昔の仕事着に戻れと、言ひさうな顔をすることである。それが諾々として服従し得ることか否かは、実物を一見すればすぐにわかる。先づ最初には男女年齢の差別が余りに少なく、一様に色が鮮かで無い。それに名称が何分にも古臭い。各部分を比べて見るとさう大して最新式の仕事着と違はぬのだが、上着の至つて短いのを腰きりだの小衣こぎぬだのと謂ひ、下にはくはかまモンペだのモツピキだのwと謂つて居る。袖無しといふのは中世の手無しと同じだが、東部の町ではもう小児か年寄にしか着せて居ない。前掛は町に保存せらるゝ唯一つの仕事着であるが、是は細長く前に垂れ、村にあるものは横広く腰を纏まとうて居る。是に手甲てつかふを附け脛巾はゞきを巻き、冬は大幅の布を三角に折つて頭にかぶり、足には藁靴わらぐつ穿くのが通例であつた。夏の仕事着には裸といふ一様式もあつたが、女は勿論そんな流行を追はなかつた。袖無しひとへ腰巻との単純な取合せは、殊に盛装する女性に疎まれて居るやうだが、あれが一番に今の流行と近い。色と模様と僅ばかりの裁ち方を改むれば、これを日本の新らしいヨウフクだと、名乗つても別段差支は無かつたのである。実際又この仕事着の方にも、明らかに各時代の新意匠は加はつて居たのである。たとへば木綿が出現すれば次々に之を採用し、紀州ネルが起れば之を腰巻にも角巻にもしたのみならず、花やかな染色が多くなると共に、其好みによつてめい/\の年頃を見せようともしたのであつた。守つて変らなかつた一点は労働本位と、古くからある肩と裾、えりと袖口などの僅なる飾りであつた。即ち是からもなほ幾らでも改良することが出来たのである。新らしい洋服主唱者にもし不親切な点があるとすれば、強ひてこの久しい行掛ゆきがかりと絶縁して、自分等ばかりで西洋を学び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い。さうして多数の為に問題を未決にして置くのが、どうもまだ本当では無いやうである。

 未決の問題はいつでも足もとにある。靴は外国でも働く女たちが常に困つて居る。独り其入費が高くつくといふだけで無く、是を人並に間ちがひ無く穿いて居らうとすると、如何に簡単な衣服を着ても、やはり十分に働くことが出来ぬからである。是も木靴を再現するわけにも行くまいから、或は行く/\日本に来て見て、鼻緒の附いたものを学ぶ様にならうも知れぬ。此方こちらでは靴のゆがつぶれを案外に気にして居ないが、何しろこの通りの土と水気では、到底あんな物を誰でもはくといふわけに行かない。男ばかりが護謨ごむの長靴などを穿いて、女はどうともせよと棄てゝ置くらしいのは悪いと思ふ。其上にもう一つ気になるのは、住宅の方との関係である。靴は其本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る。さうして極度の馴々なれ〱しさを意味して居たところが我々の家では玄関の正面で、是と別れるやうに構造が出来て居る。一日のうちにも十回二十回、脱いだり突つ掛けたりする面倒を厭うては、休処と仕事場との聯絡は取れぬので、それがまた世界無類の下駄といふものが、斯様に発達した理由でもあつたのである。衣服ばかりが単独に洋化するわけには行かなかつた。大工の技芸も根本から改まるか、さうで無ければ上り口に手洗ひ場を設けるか、我々の清潔癖が緩和するか、もしくは指でまんで物を食べる慣習でもめぬ限り、靴は到底常人の仕事着に、従属する資格をもたぬのであつた。全体に是は斯ういふものなのだと、あきらめさせる訓育がよく行はれて来たが、其中では働く者にこの暑苦しさを我慢せしめることが殊に無理であつた。それ故に流石に此点だけは背く者が多いのである。汗の悩みは日本の女たちの、永い間の試錬であつた。それは幸ひに靴の一点を除いて、今は先づ解除せられようとして居るのであるが、男はまだ大いに苦しめられて居る。厚地綾織あやおり類の詰襟の汚染を見るとせめて日本が北緯四十度以上の大陸国でゞもあつたらばと、悔む者も少なくはないと思ふが、これにも何かは知らず一つ/\の理由は有つたので、たゞ其思案が隅々に及ばなかつただけである。我々の仕事着はまだ完成して居ない。単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されて居るといふまでゞある