大正終りの護謨長時代+跣足足袋、地下足袋

1章8節361-17~18+362-13

日本が初めてゴム長靴(以下、ゴム長)をアメリカから輸入したのが1905年(明治38)だったとされるが(高田公理「長靴」『大百科事典』。図1参照。それ以前にもゴム塗靴と呼ばれる半長靴も存在した。図2参照)、佐藤栄孝編『靴産業百年史』(日本靴連盟、1971年、173頁、以下、『百年史』と略)でも、「防寒耐水性に富むゴム靴の長所が認められ、急に需要がふえてきたのは日露戦争以降のこと」だったとされている。1907年には国産も始まり、間もなくゴム靴を海外に輸出するに至るほど、ゴム産業は急発展を示してゆくが、特に1919年(大正8)頃から、神戸を中心に本格的なゴム靴工業が展開する(渋沢『生活編』、69頁。日本工学会編『明治工業史9化学工業編』1930年改版、640頁)。ただし、実用に供しうるゴム長靴を製造できたのは、『兵庫ゴム工業史』(兵庫県ゴム工業協同組合・兵庫ゴム工業会、1978年、68頁)によれば、1924年前後のことだったと記しており、『百年史』でも、1918年に神戸の神港ゴム工業所が硫化ゴム靴の製造に成功し、以降、裏布なしの総ゴムの製造が急成長したが、特に降雪地帯では必需品となったゴム長靴は1923年頃から需要が増えたとある。

一方、足裏がゴム底で、指部分が親指と残りの二股に分かれた労働用の足袋、跣足足袋・地下足袋は、現在のタイヤメーカー・ブリヂストンが深く関わっている。そのWebサイト『ブリヂストン物語』や石橋正二郎『水明荘夜話』(日本タイヤ・日本ゴム、1943年)によれば、創業者・石橋正二郎が兄の徳次郎とともに、福岡・久留米にあった家業の仕立て屋を足袋専業にしたのが1907年で、1902年頃から阪神や岡山などで生産されていたゴム底足袋を改良して、堅牢なゴム底の生産に成功し、1923年1月から販売した「アサヒ地下足袋」が一般名称化したのが、その起源だとされる。現用の地下足袋は、関東大震災後の復興作業に用いられ、急速に広まったともするが、ただし、渋沢『生活編』の年表では1905年の欄に「日露戦後、地下足袋の使用急増」、1906年には「ゴム底の地下足袋現れる」という記載があり、こちらの方が柳田の記述とは合致している。

渋沢『生活編』の67頁には、山形や秋田では足袋裏に紋羽(モンパ)を重ねて刺した石底(石底織り)の形態の履物を、タカジョウと呼び、古くから鷹匠がこれを使用していたこと、また早い地方では1894~95年頃から「地下足袋を履くようになった」とも記している。ブリヂストンの記述と一致しないのは、形態と名称(命名)の異同によるものかと思われる。地下足袋は爪先に力が入りやすく、農林業や建築職人、あるいは祭礼に用いられるが、履物を履かず、直に、歩行する作業用の足袋であることから、跣足足袋とも呼ばれた。跣足足袋の方が呼び方は古く(兼坂隆一『地下足袋物語』社団法人日本ゴム商業改善協会、1950年)、沓状のある種のものを、そう呼んだようで、博物館所蔵品や古典籍に、沓足袋や足袋沓などの呼称を与えられたものと、これを区別するのは難しい。 柳田が「大正終りの護謨長時代」と表現するのは、水産業や水田などでの作業で、ゴム長を地下足袋の代用として用いる風が大正末年から流行したと、型式学的な推移(相対年代)があったと見なしていたことによる(基本的に柳田は、履物には跣足→足半・草履→下駄→地下足袋→ゴム長靴といった層序があったものと想定している)。だが、「大正終りの護謨長時代」という表現はブリヂストンなどの叙述とは合致せず、実際には同時並行的に使用されていたろう。ゴム長靴は前述した記述以外にも、例えばMoonstar(月星印)のWebサイトでも、1925年には運動靴やゴム長靴製造が本格的に開始されたとあり、また1927年の東京日日新聞の見出し(12月12日付)には「ゴム長時代来る/雪の郊外の救世主」とあり、東京郊外の悪路のため通勤通学者の必需品となったことを報じている。後年のものになるが、『農村対策調査第3号農村経済組織に関する事項』農林大臣官房文書課調査室、1936年、157頁では、「ゴム長靴購入の激増」を調査し、「全国農民の七、八割」が所有している推計している。[岩本]

手甲、脛巾靴は其の本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る~足袋男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立ってかわった~男ばかりが護謨の長靴などを穿いて~下駄屋

図1.直輸入米国製ゴム長靴・ドイツ製黒靴クリーム
出典:芝区桜田伏見町「内田直二商店」『都新聞』1906年(明治39)11月7日付
図2.護謨塗靴(半長靴)製造
出典:京橋区築地「櫻組」『時事新報』1886年(明治19)10月7日付