第一章 眼に映ずる世相 / 四 朝顔の予言

四 朝顔の予言

 今度は方面をかへて、衣服調度以外のものを考へて見るに、花を愛するの情も亦大いに推し移つて居る。桜は久しい前からの日木の国の花であつたが、春ごとに山に咲いて之を見に出るのが花見であつた。躑躅つゝじふじ、山吹の咲き栄える四月始には、これを摘み取つて戸口に挿し、又は高いさを尖端せんたんに飾つて、祭をするのが村々の習はしであつた。秋の初には又一しきり、野山の錦の織り出されることがあるが、其時にも之を盆花に折り取つて、精霊しやうりやうの眼を悦ばせようとしたことは、冬のとぢめに常磐ときはの緑を迎へて来て、かどに祭をするのと同じであつた。くりくぬぎのやうなに立たぬものは別として、大よそ鮮麗なる屋外の花の色どりは、常に我々の心を異様にし、祭を思ひ又節供を思はしめたのであつた。人が美しいと感ずる方が前であつたか、もしくは祭の気分の為に美しく感じられたのか、それさへも未だ確められて居ないのである。花木が庭前に栽ゑて賞せられるやうになつたのは、酒が遊宴の用に供せられるに至つたのと、経過に於てほゞ相似て居る。天の岩戸の物語に伝はつて居る如く、面白いといふのはもと共同の感激であつた。其折の幸福が永く記憶せられる為に、資力のある者は少しづゝ花の木を庭に掘り植ゑた。前栽せんざいといふのは、農家では蔬菜畠そらいばたけのことであるが、上流の家では野の草を庭に咲かせようとすることを意味して居た。其うちに追々唐様の植物が渡ることになつて、邸内の色彩も単調では無くなつたけれども、それでも尚久しい間、之を以て普通民家の眼の楽みとするには至らなかつたのである。

 江戸で三百年前に椿の花が流行したといふことなども、到底今の者には想像し得られぬ程の大事件であつた。椿も此国の固有の木ではあつたが、元来は山や神様のもりに咲くべきもので、人は季節の宗教的意味を考へること無しに、此花を眺めることは無かつたのである。それが輸入により又は新らしい培養を以て、次々に変り種の出来たといふことさへ不思議であるのに、町では単なる愛玩用あいぐわんようの為に、家並に之を栽ゑようとして居たのである。当時の田舎者が驚いたのも無理は無い。しかし驚くとは言つても既に其頃から、之を面白いと感ずる者が次第に多くなつて、椿が行き詰まれば山茶花さゞんくわとか木瓜ぼけとか、末には漢名しか無い多くの木の花も渡つて来て、僅な世紀の間に日本の園芸は美しいものとなつた。さうして一方の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つたのであつた。是を海外交通の開けたといふ唯一つの理由から、解説しようとしたのが今までの歴史家であつたが、以前とても入るみちふさがつて居たわけで無い。第一には人が斯様の物を求むる心、それよりも力強い原因と見るべきは、花を自在に庭の内に栽ゑてもよいと考へた人の心の変化であつた。近頃の外国旅客の見聞記の中には、日本人の花好きに感心して居る記事が毎度有る。十坪、二十坪の空地しか持たぬ小農の家でも、居廻いまはりには必ず何か季節の花を作つて居る。よく/\自然に対する優しい感情をもつた人民だと言つて居るが、其観察は実は半分しか当つて居なかつた。花に対する我々の愛着は以前から常に深かつたが、其動機は徐々に推し移つて居たのである。今でも老人のある家などで、菊や千日紅せんにちこうやダリヤを咲かせるのを、仏様に上げる為と思つて居る者が少しは有る。畠に綺麗な花が一つも無いか、町でも花屋が来ぬ日などがあると、なんにも供へる花が無いと言つて淋しがることが、秋は殊に著しい。流行を始めた人たちは娯楽であつたかも知れぬが、それが普及するには別に又是だけの理由があつた。俳諧寺はいかいじ一茶の有名な発句に「手向くるやむしりたがりし赤い花」といふのがある。即ち可愛い小児でさへも仏になる迄は此赤い花を取つて与へられなかつたのである。此気持が少しづゝ薄くなつて、始めてひまある人々の大規模なる花作りが盛んになつた。さうして近世の外からの刺戟も大いに之を助けたのである。

 しかも西洋の草花の種が、殆ど其全群を尽して入り込んで来たのは、明治年代の一大事実であつて、今日百こんにちに近い片仮名の花の名は、大部分が其遺跡であつた。これも簡単に最も模倣し易い外国文化であつたからと、片付けてしまふことも出来ぬわけは、初期の勧農寮の政策では、積極的に之を奨励し又援助して居るのである。殊に北海道の米国式農政に於て、新たに荒漠の地を開かうとする者に異国の鮮かなる色彩を供給しようとしたのには同情があつた。恐らくは当時、農村の生活が、既に花作りによつて其寂寞せきばく単調を慰められて居る事実が知られて居たのであつた。さうして是が大きな世相変化の境目だといふこと迄には心付かなかつたのである。花を栽ゑようといふ人々の心持は、勿論此以前からも区々になつて居て、また段々に観賞の方に傾かうとして居た。最初最も弘く国内に人望があつたのは、誰でも記憶する如く千日紅、百日草といふ類の盛の長い花であつた。花の姿には別段の見所は無くとも、欲しいと思ふ時にいつでも得られるのが重宝であつた。それが追々と新種の増加によつて、次々に珍らしい花が絶えず、待つとか惜むといふ考が薄くなつて、終に季節の感じとは縁が切れた。家の内仏ないぶつに日々の花を供へるやうになつたことは、近代の主婦の美徳の一つではあつたが、其為にたつた一輪の花を手に折つても、曾て彼等の抱き得た情熱は消えてしまつた。新たに開き始めた花のつぼみに対して、我々の祖先が経験した昂奮の如きものは無くなり、其楽しみはいつとなく日常凡庸のものと化した。是が我が民族と色彩との交渉の、やがて今日の如く変化すべき端緒だと、自分などは思つて居る。

 其中でも殊に日本の色彩文化の上に、大きな影響を与へたのは牽牛花あさがほであつた。他の多くの園の花は鮮麗だといふだけで、大抵は単色であり其種類も僅であつたに反して、この蔓草つるぐさばかりは殆どあらゆる色を出した。時としては全く作る人が予測もしなかつた花が咲き、さうで無いまでも我々の空想を、極度に自在に実現させてくれたのである。是が大部分日本の国内の、しかも百年余りの自力じりよくに成つたといふことは、考へて見れば愉快なことである。牽牛花の歴史を説く人は支那からの輸入のやうに言ふが、実際は暖かな南部の海浜などに前からあり、持つて来たのはたゞ其種実の薬用と、それを書き現す漢字とだけであつたらしい。現在はもはや改良も行止まつて、辛うじて葉や花の畸形きけいに変化を見せようとして居るが、其以前には一度色彩の珍を競はうとしたことがあつた。ちやうど江戸期の末頃から、明治の前半期までの事であつたかと思ふ。所謂玄人たちはもう省みなくなつてからも、変つた色々の花が地方に普及し、人は思ひ/\の交配や撰種法を以て、今まで見たことの無い色を出さうとした。さうして一部分は成功をしたのであつた。当時人工の染料は発明日あさく、在来の技術にもまだ多くの束縛があつた間に、柿とか黒鳩くろばととかの名も付けにくい珍しい色、または紅紫青水色の艶色のみか、絞り染分けなどの美しい仕上げ迄が、一時は工芸家よりも数歩前へ出て居たのである。どうして此種の植物ばかりが、特に人間の空想に従順であつたか、今とても之を説明し得る者は無い。勿論なかばは偶然の遭遇に帰してよいが、早く此事実に心付いて、注意と情熱とを傾けたのは我々であつた。やがて出現すべかりし次の代の色彩文化の為に、この微妙の天然を日常化し、平凡化して置いてくれたのは無意識であつたらうが、少なくとも曾て外見や、陰鬱なる鈍色にぶいろの中に、無為の生活を導いて居た国民が、久しく胸の奥底に潜めて居た色に対する理解と感覚、それがどれ程まで強烈なものであるかを、朝顔の園芸が十分に証明した。さうして予め又今日の表白の為に、少しづゝ準備をさせて居たのである。