町でも花屋が来ぬ日

1章4節349-9~10

柳田は花屋を店舗営業ではなく、行商の花屋を想定している。店を構えず,商品の名を大声で呼びながら売歩いた行商人のことを、振り売りと呼ぶ。天秤棒を用いるときは、棒手振(ぼてふり)とも呼んだ(「棒の歴史」『村と学童』⑭)。特に女性と商業との関係は、民俗学では販女(ひさぎめ、ひさめ)と称し、その物売り行為を古くから着目してきた(瀬川清子『販女』三国書房、1943年、北見俊夫『市と行商の民俗』岩崎美術社、1970年)。京都では平安中期から白川女(しらかわめ)と呼ばれる花売りが、「花いらんかえー」と触れながら頭上運搬で花を売り歩いた。白川女は京都市北東部の比叡山裾野を流れる白川の、両岸近辺に暮す北白川の女性たちで、売り方はリヤカー販売に変わったのち、廃れた。今では時代祭りに行列する、その姿を見るに留まる。

明治30年頃の花売りの女性
出典:丸浜晃彦解説『なつかしの日本』心交社、1994年、18頁

また福岡生花商協同組合のウェブサイトによると、1959年(昭和34)4月1日当時の福岡生花商協同組合員数は、店舗数が53、行商41、仲買5、その他5、計104名とあって、物売りから店舗へと移行しつつある状況が読み取れる(福岡花商協同組合http://www.fuku-hana.com/reimei.html

庭木や鉢植えでなく、切り花を消費する行為は、切り花や草花などを素材に、その造形美を愛でる生け花(華道)として、日本では独自の発展を見せてきた。江戸時代に女性の芸事となりつつあった生け花は、明治に至って良妻賢母教育の一環として茶道や裁縫などとともに女子教育の中に摂り込まれ、婦女子の間に広く浸透した。学校や職場を単位とした、お稽古事として、嫁入り道具(修行)の一つとされた時期もあり、池坊・小原・草月の三大流派を中心に、1970年代中期、推定1500万人の生け花人口があったとされる(最盛期、1980年代後半、推定3000万とする説もあるが、近年はフラワー・アレンジメントの流行で沈滞気味だという)。華道家の北条明直によれば、元来、生け花は座敷飾りの花として出発したように、大正から昭和の初めにかけて一般民家にも普及していった座敷や床の間という室礼(しつらい)の発達によって、座敷がないと一人前ではないという新たな身分意識の現われが、封建遺制をかえって復活させたとする(『いけばなのデザイン―いけ花文化史』至文堂、1978年、13頁)。大正中期の生活改善展覧会では、四畳半一室の長屋にも三尺の床の間を設ける提案がなされたほどであったが(森口多里・林いと子『文化的住宅の研究』アルス、1922年、273頁)、戦後、生け花は、洋花を摂り入れた自由な様式が生み出される一方、盛り花(盆栽の水盤を花器に利用し、色彩豊かな洋花を写実的・叙景的に盛る)や自由花、さらには前衛生け花など、多様化が進行している(盆栽に関しては、第3章8節「庭園芸術の発生」の鉢植えを参照)

なお、花卉(切り花・鉢物などを含む)の生産額は2000年まで世界一を誇っていたが、2016年の一世帯あたりの消費量は2000年の2割減となって、国別生産額も世界3位に後退している。後退の背景には、盆や彼岸といった歳時における花の利用が減少したことや、家庭において花の飾り場であった仏壇や床の間の減少など、ライフスタイルの変化があると推定されている一般社団法人日本花き卸売市場協会『平成28年度農林水産省国産花きイノベーション推進事業 物流の効率化の検討・実証(広域)報告書』2017年:https://www.jfma.jp/data_files/view/283/mode:inline)。[岩本]

赤い花花作り家の内仏に日々の花を供へるやうになつた