第一章 眼に映ずる世相 / 九 時代の音

九 時代の音

 私の新色音論は、つひ眼で見るものゝ方に力を入れ過ぎたが、是は誠によんどころ無いことであつた。音は色容いろかたちの如く曾てあつたものを、永く以前のまゝで保留しては居ない。現在の新らしい世代を代表する音の中にも、確に若干の元からあるものを含んで居るのだが、これを聴き分け又人々と共に味はふといふことは六つかしく、従つてその善ししに就いて、選り好みをすることが出来ない。それ程我々は新たに現はるゝ一つ/\の音の為に、心を取られてしまひ易かつたのである。人が天然の快い物の音を記憶して、学び伝へようとしたものは僅であつた。楽器はその構造が単純であつて、多くの約束によつて辛うじて其聯想を繋ぐばかりであつた。人の音声は幾分かそれよりも自由で、稍適切なる模倣を為し得たかと思ふが、後々内容が複雑になつて来ると共に、次第に分化して符号のやうな言葉だけが激増したのである。色とは違つて人間が何の目的も無しに、作り出した音といふものも非常に多い。しかも其大部分は今までの音よりも、珍しく又力強く人の心を動かしたのであつて、所謂騒音の世界が我々を疲らすものであることは、まだ近頃まで心づく者が無かつたのである。

 耳を澄ますといふ機会は、いつの間にか少なくなつて居た。過ぎ去つたものゝ忘れ易いは言ふまでも無く次々現はれて来る音の新らしい意味をさへも、むなしく聞き流さうとする場合が多くなつた。香道が疲るゝ嗅覚の慰藉であつたやうに、音楽も亦これ等雑音の一切を超脱せんが為に、慾求せられる時代となつて居るが始に由つて人の平日の聴感を、遅鈍にすることなどは望まれない。のみならずその色々の音響にも、一つ一つの目的と効果とがあるので、それを無差別に抑制しようとするのも、理由の無いことであつた。古来詩人の言葉で天然の音楽などゝ、形容せられて居る物の音の中には、実は音楽では無くてそれよりも更に楽しいものがある。都市のざはめきは煩はしいものゝやうに思はれて居るが、曾ては其間にも我々の耳をさはやかにし季節の推移を会得せしめるものが幾つかあつた。ちまたせちがふ車のとゞろきや、機械の単調なる重苦しい響きまでも、人によつては尚壮快の感を以て、喜び聴かうとして居るのである。闇が我々を不安に誘ふ如く、静寂は常に何物かの音を恋しがらせる。殊に人間の新たに作り出したものは、たとヘ染色そめいろのやうに計画のあるものでは無くとも、兎に角に相互ひの生活を語り合つて居る。人は即座にそれが何であるかを解し、もし解し得なければ必ず今の音は何かと尋ねる。即ち音は欠くべからざる社会知識であつた。それを批判も無く又選択も無しに、一括して憎み又は避けしめようとするのは誤つて居る。行く/\是も亦綿密に整理せられ、色と同様にこの共同生活の立場から、各の価値を定められる時が来ると思ふ。

 全体に一つの強烈なる物音が、注意を他のすべて奪ひ去るといふ事実は、色の勝ち負けよりも更に著しいものがあつた。それ故に企てゝ所謂いわゆる一種異様の響きを立て、之に由つて容易に中心の地位を獲ようとする濫用が、時としてはあつたやうである。殊に近頃までの日本人は、一般に其誘惑に対して弱かつたと見えて、明治に入つてからも誠に珍しい経験をして居る。よほど以前にも私はこれを社会心理の一問題として提供して置いたが、それにはまだ別の解釈を示した学者も無かつた。平和なる山の麓の村などに於て、山神楽やまかぐら或は天狗倒てんぐたふしと称する共同の幻覚を聴いたのは昔のことであつたが、後には全国一様に深夜たぬきが汽車の音を真似まねて、鉄道の上を走るといふ話があつた。それは必ず開通の後間も無くの事であつた。又新たに小学校が設置せられると、やはり夜分に何物かゞ、その子供等のどよめきの音を真似ると謂つた。電信が新たに通じた村のむじなは、人家の門に来てデンポーとよぼはつた。其他造り酒屋が出来ると、季節はづれに酒造りの歌をうたふ者があり、芝居が済んで暫くの間は、やはり空小屋の中で囃子はやし拍子木の音をさせるといふ毎夜のうはさがあつた。斯ういふ類の話は決して一地方だけでは無く、而も一家近隣が常に共々に此音を聴いたと主張するのであつた。新らしく珍らしい音響の印象は、之を多数の幻に再現するまで、深くこまやかなるものがあつたらしいのである。我々の同胞の新事物に対する注意力、もしくは夫から受けた感動には、是ほどにも己を空しうし、推理と批判とを超越せしめるものがあつたのである。其後余りにも頻繁なる刺戟の連続によつて、この効果は頗る割引せられることになつたが、尚言論の如きは音声の最も複雑にして又微妙なるものである。是が今までさういふ形式を知らなかつた人々を、実質以上に動かし得たのもむを得なかつた

 故に音楽の流行がもし我々の音の選択、即ち特に自分の求むるものゝみに耳を傾けさせる習慣を養うてくれるならば、それは確にこの生活を乎穏ならしめる途である。さうで無い迄も此世には既に消え去つたる昔の音が多く、今尚存在して稍かすかに、もしくは是より新たに起らんとするものがあつて、或ものは甚だ快く又或ものは無用にしてしかも聞苦しく、最も美しいのは必ずしも高く響いて居るもので無いといふことを、知らしめるだけでも一つの事業であらう。聡明そうめいは決して現在の特に強烈なるものに、動かされ易いといふ意味では無いのである。昔は縁の下にあり角力すまふを取る音を聴いたといふ話がある。それ程で無くとも心を静めて聞けば、まだ/\面白い色々の音が残つて居る。聞き馴れて耳に留まらなくなつたのは、くさむらの虫こずゑせみだけでは無く、清らかなるものゝ今や稀になつたのは、野鳥のさへづりのみでも無いのである。新たに生れたものゝ至つて小さな声にも、心にかゝるものは多い。ある外国の旅人は日本に来て殊に耳につくのは、樫の足駄の歯の舗道にきしむ音だと謂つた。然り、是などは確に異様である。さうして又前代の音では無かつた。