第一章 眼に映ずる世相 / 五 木綿より人絹まで

五 木綿より人絹まで

 是を模倣の如く又出藍しゆつらんほまれでもあるかの如く、自分までが考へてかゝることは間違である。機会が相応しなかつた故に発明はよその国にゆだねたといふばかりで、色彩の進歩に向つては立派に我々も寄与し得る素養があつたのである。他の万般の学術も同じことであるが、其利用を完成し得る能力と、之を創始した智慮とは二つのものである。つとに自然に恵まれ又練習させられて居る我々が、行く/\世界の色相観を導き得るかどうかは、今はすこしでも予定せられて居ない。少なくとも現在の実状よりは、ずつと前の方へ進み得るであらうことは、歴史の学問が之を希望させてくれるといふわけは、我々の知り又考へるべきことが、まだ幾らも残つて居るからである。境遇が我々の技芸の発達の為に有利であつたことは、将来はいざ知らず、過去に於ても悦ぶべきものが幾らもあつた。たとへば色に対する日本人の趣味性の如き、一方には以前の精神生活の影響によつて、渋さの極致ともいふべきもの迄を会得した頃に、ちやうどアニリン色素などの応用が起つて来たのである。色の二つの種類の境目が紛乱し始めた時期まで、季節信仰を超越したやうな余り多くの花物は入つて来なかつた。朝顔の栽培がよい頃合に流行したやうに、木綿の輸入なども遅過ぎもせず、又早過ぎもしなかつたやうである。

 綿の種は山城やましろの都の初の世に、三河の海岸から上陸したといふ記録があるが、どこに栽ゑ何物に利用して居たのか、まだ何人も之を指示し得ない。第二の輸入はずつと時を隔てゝ、所謂南蛮貿易の頃であつたらうが、それもやゝ久しい期間、案外に普及して居なかつた。諸国の農民が真剣に綿を栽培し始めたのは、江戸期も半を過ぎて、綿年貢の算法が定められた享保度の僅か前からのことゝ察せられる。以前も少しづゝは名を知られ、又相応にもてはやされて居たものが、急に此様に生産を増加することになつた理由は、恐らく紡織技工の進歩よりも、是も亦染色界の新展開にあつた。葉藍はあゐ耕作の最初の起りは不明であるが、少なくとも是が実用には専門の紺屋が予期せられて居た。家々の手染に於ては、此材料は処理することが稍六つかしかつた。麻やさよみの類にも染められぬことは無いが、殊に木綿に於て最も藍染の特徴を発揮して居るのを見ると、紺を基調とする民間服飾の新傾向は、全くこの二つの作物の提携から生れて居るのである。紺の香と木綿の肌ざはり、歴史は短かゝつたかも知れぬが、懐かしい印象を残して居る。

 これ以外にも鬱金うこんとか桃色とか、木綿で無くては染められぬ新らしい色が、やはり同じ頃から日本の大衆を悦ばせ出した事は、諸国の小唄こうた類に今以て其痕跡を留めて居る。如何に我々の内部の色彩感覚が育成して居らうとも、麻を著て居たのでは之を実際に表はして見ることが出来なかつた。ちやうど一つの関の戸が開かれたやうなものであつた。何れの民族でも同じかと思ふが、木綿著用ちやくようの歴史には記念しなければならぬことが多い。山本修之助氏の集めた佐渡の民謡の中に「シナのはだそですねこくる」といふ盆踊唄がある。シナといふのはしなの木の皮で織つた布、もとは通例は肌にも麻を着けたが、土地によつては湯具にまで級布を用ゐたのである。肌膚ひふが之に由つて丈夫になることも請合だが、其代りには感覚は粗々しかつたわけである。ところが木綿のふつくりとした、少しは湿つぽい暖かみで、身を包むことが普通になつたのである。是が我々の健康なり又気持なりに、何の影響をも与へないで居られた道理は無いのである。日本の若い男女が物事に感じ易く、さうして又一様に敏活であるのも、あるひは近世になつて体験した木綿の感化では無いかと、私たちは考へて居るのである。

 少なくとも日本人はこの木綿の採用に当つて、一回のとつおいつ﹅﹅﹅﹅﹅を経験して居る。果して一千年来の麻のきぬを脱ぎ棄てゝ、この新来の衣料に身を任せるのがよいものかどうかは、用意に決し難い問題であつたのである。海洋国の夏は殊に多湿であつた。肌と著物との間に幾つもの三角な空地を作つて置いて、たび/\扇の風を送り込まなければ、汗を放散させて清涼を味はふことが出来なかつた。それには腰の強い麻の糸を、織つて著るのほかは無かつたのである。木綿は温柔な代りに足手にまつはり易く、主として春と秋とを外で働く者にも適しなかつた。新鮮な染色の効果を愛する人たちは、それ位な便不便は省みざらんとしたのであるが、尚極端にのりをこはく、又洗濯の度毎に打ちひらめて、旧来の麻の感触を少しでも保持して居たのである。縮みといふ一種の織り方が、特に日本に於て盛んに行はれたのも国柄であつた。斯うして漸くの事で不断着の買入れを可能ならしめ、終に全国の木綿反物を、工場の生産品たらしむる素地を作つたことは、考へて見れば手数のかゝることであつた。

 麻の第二の長処は久しく持つといふことであつたが、是も後に不人望の種となつて居る。色が目に立ち記憶し易くなれば、飽きて折々はへよるとするのも自然で、それには却つて木綿の早く弱るのが、うれしかつた人も多いやうである。好みの年齢に応じてそれ〲に違はなければならぬ習はしは、全く此時から始まつたのである。大体に日本人くらゐ、多量の衣裳を持つて居る民族も無いと言はれて居るが、元は単純な誰にでも用に立つ品を、多く持つのだから、貯蓄にもなつたが、末には折角の宝を衣櫃きぬびつの底で、腐らせるような場合は無いではなかつた。それよりも更に無益なる古くからの惰性は、絹織物に対する過度の尊敬であつて、為に幾分か木綿の利用法を、無理な方法に導いて行つて形がある。曾て中華民国では爪を長く延ばす風があつた。爪は決して美しいもので無いが、毎日働く者には爪を長くして居る事が出来ない。即ち働かずともよい人の記号として、爪の長いのが好ましがられたのであつた。絹は爪などよりは無論美しいが、是もやはり働かぬ時の衣料であつた故に、何か格別によく見えたのである。染色が自在に我々の実用に供せられるやうになつた後まで、尚染絹そめぎぬ上﨟じやうらふの代表の如く、考へる気風は失せてしまはなかつた。さうして好みは往々にして其模造の方に赴いたのである。金巾の輸入は其品物が少しばかり、又其名前の半分が絹に近かつた故に喜ばれた。所謂唐糸たういとは持が悪いことは知りつゝも、単にその細手の故を以て普及した。明治二十九年の棉花関税の全廃は無くとも、以前の太短かい日本棉などは、次第に片隅に押しらるべき運命をもつて居たのである。紡績の工芸が国内に発達して来ると共に、木綿の着心地は公然として変化した。もはや洗濯物の糊のこはさ柔かさを、深く詮議せんぎする者は無くなつた。衣服は此通りいつも稍湿つて肌に附くものと相場がきまつてしまつた。女性の姿のしをらしさが、遠目にも眼につくやうになつたのも此頃から、又その細かな内々の心遣ひが、み取らるゝことになつたのも此頃からであるが、其代りには幾分か人に見られるのを専らとする傾きを生じ、且つやゝ無用に物に感じ易くなつて来たことも事実である。