これ以外にも鬱金とか桃色とか、木綿で無くては染められぬ新しい色が、やはり同じ頃から日本の大衆を悦ばせだした事

1章5節352-9~10

柳田は『木綿以前の事』で、俳諧七部集の『炭俵』にある「はんなりと細工に染まる紅うこん」などを紹介し(⑨429、⑨606)、次のように続ける。木綿が若い人たちに好まれた理由として、「第一には肌ざはり」、「第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思つて居たのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まつた。さうして愈々棉種の第二回の普及の効を奏したとなると、作業は却つて麻よりも遥かに簡単で、僅かの変更を以て之を家々の手機で織出すことが出来た」(⑨430—13~17)と述べている。

すなわち、芭蕉翁の頃、庶民の服の素材が麻から木綿へと変わっていった時期と、色彩文化史を専攻される國本学史氏のご教示によれば、鬱金などの染料が増えたのがほぼ同時期であること、鬱金色(黄金色)や桃色などの淡い色や明るい色も染められるようになったことによって、「紺を基調とする民間服飾」(352-7)だけでなく、「内部の色彩感覚」(352-10)の成長を表面に現わせるようになったことを示唆している。桃色は、近年の桜染のような、桃の果実や樹木を染色材として染め出した色ではない。國本氏の教示によれば、紅花染めや、蘇芳・茜・臙脂(コチニール)でも、染料の量や染液にくぐらせる回数が少なければ(ph調整や媒染剤を調整した上で)、綺麗に桃色を染め出すこともできた。麻やさよみの類でも鬱金や桃色を染めることはできたが、今日の麻よりも繊維の固かったらしい古い麻では、染めにくく、色褪せやすく、色の定着しにくい可能性が高い。コストや手間を考えても、鬱金色や桃色に染めることは不合理なことだった。柳田は「木綿著用の歴史」において「記念」(352-12)すべき転換が起こったとするが、すなわち粗々しかった感覚が、若い男女が物事に感じ易く、かつ敏活になったと論じ、これを「近世になつて体験した木綿の感化」(352-17~18)だと捉えている。[岩本]

紺を基調とする民間服飾の新傾向