赤い花

1章4節349-12

小林一茶の「赤い花」の俳句は、自分の亡くなった娘を思って詠んだものである。赤い花が好きだった娘も生前はそれを摘むことが叶わず、亡くなって初めて手向けられたという意味だが、この俳句は赤い花が死者と深く結びつくものであったことを暗示している。

柳田は「地梨と精霊」という文章の中で、長野県東筑摩郡の各村の精霊棚に林檎を糸に結わえて引きかける例が多いことを紹介し、これが明治以降の文化であるとして、以前は地梨、すなわち草木瓜(クサボケ)の実だったと推測している。ボケも赤い花と実をつけ、庭にこの木を植えることは忌まれたが、柳田は「赤い果物」を盆の精霊に供へる習慣は「気を付けて居ると他の地方にも有るやうだ」と述べており、東北のハマナス、全国的に見られるホオズキの例を紹介している(「地梨と精霊」1936年『信州随筆』⑨74)

ボケは関東で樝子(シドメ)、壱岐では彼岸花、後生花と呼ばれており、死を連想させる花であった。現在、彼岸花と呼ばれる花は、学名Lycoris radiataの一種類のみだが、過去には彼岸に供える花一般を指す言葉として用いられる場合もあったようである。例えば青森県八戸では春の彼岸に供える柳の花を彼岸花と呼んでいた(「ヒガンバナ」『綜合日本民俗語彙』3巻、1955年、平凡社)。また彼岸花を指す方言も様々なものがあり、アカバナ、ハヌケ、シビトバナ、ソウシキバナ、ユーレイバナ、ジゴクバナ、ドクバナなどがある(川名瑞希「彼岸花にみる生活世界-命名と名称分布から」『常民文化』41号、2018年)。このドクバナという方言からも理解されるように、彼岸花には毒性があり、土葬の時代には墓地などで害獣除けとして植えられた。また水にさらして毒性を抜くと救荒食にもなるが、飢饉や死を連想させるものとして良いイメージを持たれておらず、「家に彼岸花を持ち帰ると火事になる」「母親が死ぬ」「さわると歯が抜ける」といった俗信が存在する。

なお、宮本常一の『忘れられた日本人』には、天保の飢饉の際に伊予から土佐山中へと逃れた避難民が彼岸花の群生するシライ谷に小屋を建てて住んでいたとの記述がある。このシライはシレエ(死霊の意であろう)ともいい、彼岸花を指すが、これをシライ餅という救荒食に加工して、人びとは飢えをしのいだ(岩波文庫、1984年、167~168頁)

このように椿や山茶花、木瓜のような「赤い花」は死や信仰と深く結びついた存在だったが、そのような心持ちは徐々に薄れ、同時に海外から新たな品種が輸入されたことにより、多様な花作りが都市で展開したと柳田は考えたのである。[加藤]

蝶や小鳥の~別世界の消息の如くに解して居た花木が庭前に栽ゑて賞せられる椿の花が流行山茶花町でも花屋が来ぬ日花作り家の内仏に日々の花を供へるやうになつた牽牛花季節信仰