殿中足袋御免

1章8節362-5

中国より伝来した履物は、襪(しとうず)と舃(せきのくつ)の組み合わせとして、養老衣服令(えぶくりょう)の礼服と朝服とにも取り入れられている。しかし、襪はひもで結ぶ足を包む袋というべきものであり、指の部位は分かれていない。

他方、皮製の、足を包む履物も存在し、武家の間に普及した。武家においては、礼装では素足が正装とされ、防寒具としての足袋は、病気や高齢を理由に冬季のみ「殿中足袋御免」を願い出て、許可を得た場合にのみ特例として着用することができた。

『日本服飾史』によれば、寛永年間の頃から木綿足袋が現われた(谷田閲二、小池三枝、光生館、1989年)。社会に広く普及するなかで、筒の短い半靴が生まれ、色には流行があったが、男性は紺足袋が多く使用された。また、この時期に、元来防寒の用途であった履物が、夏に着用することも広まった。渋沢敬三編『明治文化史 12 生活編』(洋々社、1955年)によれば、足袋をはく、はかないという問題は、町場とそれ以外、老人のみ、ハレの時以外は冬季のみ、夏でも冠婚葬祭やよそ行きの場合などは着用する、といった階層や年齢、季節、機会など様々なバリエーションがあったが、「ふだんばきはほとんど自製の紐足袋で、購入品はよそいきか冠婚葬祭用にかぎられ、それも三十七、八年以降多くなったようである」としている(遠藤武「衣服と生活」前掲渋沢編所収)。この流行を柳田は、後文で「寒い冷たいが最初の理由では無く」として機能的な説明を退け、また、1901年の跣足禁止令といった法令からでもなく、物珍しさ、肌への感覚から説明している。

足袋について詳述する一方、靴とともに普及し始めていた、我々になじみのある靴下には触れていない。この問題は、今後の課題である。[田村] 

明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した足袋素足