初期の勧農寮の政策

1章4節349-17

「勧農寮」は、1871年8月から翌年10月にかけて、大蔵省内に存在した殖産興業、とりわけ農業奨励のための部局。しかし「初期の勧農寮」という表現から、柳田は、その時期に限らず、それ以前の民部省勧農局や大蔵省勧業司・勧業寮、1873年末の内務省設置にともなう同省の勧業寮、さらにはその後進のひとつである勧農局などの総称として使用しているようで、明治初期の勧農政策というのとほぼ等しいだろう。「北海道の米国式農政」というのは、1871年9月に開園した開拓使官園などのこと。開拓使顧問の米国人ホーレス・ケプロン(1805-1885)が指導し、東京の青山などに設けられた。1874年に農業試験場と改称したが、1881年に民間に払い下げられ、翌年廃止された。官園の成果を示すものに、『西洋果樹栽培法』(開拓使、1873年)があるが、中心は果樹であり、柳田のように花卉に着目するのは珍しい。だが柳田は、1906年の『農政学』のなかで、「花卉・蔬菜の栽培等普通に園芸と称せらるゝもの」を含めて農業とすると定義しており(①201~203)、柳田にすれば、勧農寮の政策のなかで花卉に注目するのは、当然のことであった。[山口]

花作り明治年代の一大事實