椿の花が流行

1章4節348-15

江戸における椿の流行は、1643年(寛永20)刊の『あづまめぐり(別名・色音論)』に見られ、江戸の市井の出来事を記した『武江年表』(斎藤月岑著、正編1850年、続編1882年)にも、その記述が引用されている。当時の人びとは品種改良や突然変異による「変わりもの」を珍重し、「百椿図」(17世紀・伝狩野山楽筆)などの絵画も描かれた。柳田は、日本全国に広く分布する椿が、人々の信仰と深く関わるかたちで広がったと考えた。特に寒冷地の北日本にまで椿が分布するためには、「人間の意志」が不可欠であるとし、「天然記念物」ではなく「史跡記念物」である可能性を示唆している。八百比丘尼が持ち歩いたとされる玉椿の枝や、東北の民間宗教者の呪具である椿の槌、卯月八日の椿山への登山などを根拠とし、椿が信仰と関わる花木であったと推測しているが(「をがせべり」1928年『雪国の春』③736、「椿は春の木」1941年『豆の葉と太陽』⑫224、227~228)、ここでも花木を植え育てる行為の背後に信仰の存在を想定する柳田の視座が窺える。[加藤]

吾妻廻り花木が庭前に栽ゑて賞せられる赤い花