白といふ色

1章3節347-10

日本では「白は本来忌々しき色」で、神祭の衣か喪の服以外には身に著けずとあるように、清浄かつ神秘的な色とされた。「紺屋の白袴」と呼ぶ如く、褻着には白を用いなかったが、朝鮮半島では「白衣の民族」と自称したように、白は日常の衣服に着用されてきた。これに対して日本では、シロは葬儀の際の喪服や白装束などを指す言葉であり、その忌み言葉としてイロと呼ぶ地方も広かった(「イロ」『綜合日本民俗語彙』1巻、1955年)[岩本]

台湾においても白は死を連想させる色であり、「白」字は葬儀に関する用語に見られる。喪服の色や形式は死者との親族関係により決定されるが、喪服の帽子を閩南語で「頭白」と総称する。また、葬儀の開催を知らせることを「報白」といい、実際白紙に黒字で訃報を印刷し、親族友人に送付する(李秀娥『図解台湾喪礼小百科』晨星、2015年)[白]

日本において喪服の色が黒に変更されてゆく過程は、1897年(明治30)の英照皇太后の大葬から上層で始まった。民間への普及は内務省が1919年(大正8)から主導した民力涵養運動によって進められたが、白という色は、死の儀式に深く関わるだけではなかった。婚礼の白無垢をはじめ、奄美の喜界島や沖縄の宮古島や八重山諸島では産屋をシラと呼び、出産の忌を白不浄と称することなどから、民俗学的にも耳目を集めてきた問題群だった。

柳田國男は南西諸島で稲積みや稲の貯蔵場あるいは種子籾をシラと呼ぶことに着目し、加賀の白山信仰をはじめ、信州遠山郷の霜月祭のシラ山(胎内くぐり)、関東以北のオシラ(蚕の神)、東北のオシラサマ(場所によってはシラヤマサマとも)などとの連関を視野に含め、シラには生むもの育つものを含意する可能性を示した(「稲の産屋」㉑「国語史のために」㉜)。古代には「十日の、まだほのぼのとするに、御しつらひかはる、白き御帳にうつらせたまふ」(『紫式部日記』1008年(寛弘5)9月10日条)とあって、一条天皇中宮彰子の出産に際し、調度・家具・几帳のみならず、近侍の女房の装束まですべて白に変えたことも見えている。

宮田登は柳田の仮説を受け継いで、富士塚で六月朔日に白い雪が積もるという言い伝えや、穢れを払う神格としての白山神の機能、愛知北設楽郡の花祭のシラ山に60歳になった男女が入ると擬死再生できるという伝承などから、白という色には、人びとや世界が生まれ清まるという象徴性が内包されると指摘した。花祭のシラ山を再解釈する宮田によれば、花祭の象徴と目されるのは、「びやっけ」(白蓋)と称する舞い場所、すなわち舞戸の中央天井から吊り下げられた天蓋のような形をした飾物である。「びやっけ」の下で、さまざまな立願を込めた舞いを夜を徹して行い終えた男女が白装束の姿で「びゃっけ」に籠ることによって、ウマレカワリ、それも神の子としてウマレキヨマル存在として出現することを意味するのだと宮田は説いている(『原初的思考―白のフォークロア』大和書房、1974年、『ケガレの民俗誌―差別の文化的要因』人文書院、1996年)。吉本隆明にも柳田の用いるシラから、その思想や方法を洞察した「縦断する『白』」という論考がある(『定本柳田国男論』洋泉社、1995年)[岩本]

色の種類に貧しい国