日常+日常化

1章3節345-8、346-12、1章4節350-7+1章4節351-2

柳田國男が「珍事・奇談」ではなく(千葉徳爾「『日本民俗学の頽廃を悲しむ』について」『日本民俗学』194号、1993年、158頁)、「当たり前なもの」「ありふれたもの」に関心を向けていたことはいまや論を俟たないが、彼が「日常」という語をどのように使用していたかはなお検討されてよいだろう。『世相篇』の中では、日常という語は5ヵ所(第1章第3節に2ヵ所、第1章第4節に2ヵ所、第8章第1節に1ヵ所)出現する。例えば、第1章第4節では、花に対する「昂奮の如きもの」が消え、その楽しみが「日常凡庸のものと化した」という一文、そして、「微妙の天然を日常化し、平凡化して置いてくれたのは無意識であつたろうが」というかたちで「日常」の語を用いている。いずれも「平凡」「凡庸」「凡俗」という語とセットで現れている。注意すべきは、非日常的で特別な体験であったものがありふれて、取るに足らないものへと「変化」したことを述べる中でこの表現が用いられている点であろう。なお、同様に『民間伝承論』において柳田は「珍奇異状変態のみを求めることは不可である。百年前の当り前が、今日の不可思議である場合もあり得ることを、考え及ぼす必要もある」としている(⑧42~43)。柳田が、静態的な日々の営みだけでなく、動態としての「日常」への視角も持ち合わせていたことを確認することができる。[及川]

歴史は他人の家の事績を説くものだ~昂奮山茶花